冥土の土産というつぶやき

 あまり縁起でもないお題。なぜこんなことを書くかというと、私みたいに退職して今までやっていた仕事から手を引いてしまうと、どうしても死ということが少しずつ身近に感じるようになるからである。若い頃は多分そんなことは意識しないであろう。同じ年代の方々が亡くなっていくのも関係する。同級生だけで三人がもうこの世にいない。つまり、自分だっていつこの世とおさらばするかわからないのである。あと、昔は仕事を一線から手を引くと隠居といって今までの仕事一辺倒の生活から別の生活が待っている。極端なことを言えばあとは死が待つのみなんで考える人も中にはいただろう。

 そこで、冥土といえば死後の世界。浄土といったりあの世といったり天国といったりすることもあるかな。実際には死んでしまえば何も持っていけない。自分の体、自分の大切にしていた物、お金や財産などはすべて置いていくというか捨てていかねばならない。自分という意識は実体がないためよくわからないところがあるが・・・。いずれにせよ、冥土の土産など持っていけるはずがない、というのが妥当なところだろう。

 では、どうすればよいか。それは冥土の土産をものとして考えないことだ。死から今の自分を考えたとき、死ぬまでは絶対に生きているわけで、もうこれで終わりだと感じるまでが生である。その時何を思うか考えてみる。たぶん、それまでに生きてきたことを思い起こすと思う。そしてもうこれで思い残すことはない,悔いはないと思われたならば、それが冥土の土産になるのかな。このままで死ねない、と思えば悔いが残っているので冥土の土産も少なくなるかな。まあ死ぬ瞬間までわからないことばかりだけど。私が考えるに冥土の土産とはこの世の中で行ったこと、経験したこと、したいことができたことであり、よかった、ありがとうと言って死ねるとそれ自体が土産になるとも思う。できなかったけどやれるだけのことはやって生きてきたと思えるだけでもいいかもしれない。

 ということは、まだ生きている間は、いつかすればいいなどど後回しにしないで、今心から本当にやりたいことをどんどんやっていく、結果的にできなくなっても挑戦していくことが自分の人生を生かす、命を使うことになり、それこそ冥土の土産となると思うがどうだろうか。ただ大事にしたいと思うことは自分だけのためにするのではなく、自分のためにやったことであっても、結果的に少しでも世の中ため人のために役にたったといえたら、ラッキーかもしれない。

 例えば、伊能忠敬という人も仕事をやめて隠居してから自分が好きな学問を学んで好きなことをやった結果、日本の地図を完成させてしまった。こんなことは真似できないけど、自分の生き方の大いなるお手本と感じるこの頃である。

大日如来