予期せぬことがおきたとき

 毎日生きていると思いもよらない出来事が起きてくる。考えて見れば新しいできごとがいつも起きていてそれは想定内だから思いもよらないとは考えていないだけだ。毎日の生活がほぼルーティンで回っていると逆に平凡な生活、変化ないなあなんて思ってしまうこともある。

 その日常に起こるであろうと予想できることが起きてもある程度対処ができるので、当たり前だけど、それは予期せぬことが起きたとは言わない。

 一般的に予期せぬこととは被害や損害が大きな場合にとても重大になってくる。地震・台風・大雨などによる災害、火事、交通事故などはその典型であろう。その他にも大怪我、大喧嘩などの大がつくものそう言えるかもしれない。

 自分にとって困った事や悲しい出来事が起きたときは本当に予想だにしなかったと思える。なぜこんなことを書くかというと、最近あった予期せぬことがおきたからだ。その一つは、弟の死。詳しくはここでは省きたい。もう一つは、ろっ骨の骨折だ。棚の上の物を椅子にのって取ろうとしていて椅子が倒れ、そのまま落ちていきなり左の肋骨を強打。このときの痛いのなんのって。しばらくは立つのはおろか横にもなれないし絶望的。痛いところを触ってみると痛いなんてものじゃない。すぐに医者に行こうとしたけど、痛くて車にも乗るのに大変。やっと着いたと思ったら、待ち時間は2時間。レントゲンを撮ったら見事に骨が離れていた。骨折だ。痛み止めの薬と胸に巻く固定バンドをもらって終了。なにも他にすることがなく、時間が経つのを待つしかないと言われた。全治一ヶ月~。

 家に帰ってからも痛みは続くのだが、本当に何もすることがない。痛みが出ないように動くだけであとは痛い動作をしないようにしているだけ。だから今まで体を動かしてやっていた体操やジョギングはできない。咳をしたりくしゃみをしたりしたら激痛。寝ていて骨折部分を押し付けるとこれまた痛い。歩くことはできる。じっとしているたちではないため今までできていたことができないのは本当につらいものだ。突然こういうことがやってくるのが予期せぬことだ。

 話が長くなってしまったが、今回のお題は予期せぬことがおきたときどうするかであって、長々と書いた愚痴ではなかったはずだ。結論はなるようにしかならないということだ。どうあがいてもどう愚痴っても起きてしまったことはもどにもどらない。起きた現実を受け入れて仕方がないとあきらめ、その今の状態でできることをするだけ。だからその一つブログも書いている。昔の有名なお坊さんの良寛さんがいっていたように「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。是はこれ、災難をのがるる妙法にて候」であろうか。

宮本祖豊さんから学ぶこと

 NHKの「心の時間」という番組を見た。番組の概要は以下の通り。

「12年 孤独に自分と向き合って〜比叡山 籠山行〜」再放送日: 2023年5月14日午前5時

 孤独になりがちな現代、己とどう向き合うのか。比叡山で続いてきた十二年籠山行、俗世を離れ自己と向き合う行を満行した宮本祖豊さんに聞く。 十二年籠山行は、1200年前、天台宗の開祖・最澄比叡山に籠って悟りを得たことから始まる伝統的な修行。最澄の廟がある浄土院に籠り、外に出ることなく最澄の生ける魂に仕え、ひとり孤独に12年間過ごすという行。しかし、宮本さんは12年の間一度も孤独を感じることはなかったと言う。新型コロナウイルスによって顕著に現れた孤独の問題。十二年籠山行の経験を通して、どうすれば孤独から逃れられるのかを聞く。

 

 このお坊さんの考え方には共感することが多々あったので、その中から学んだことを記録してみた。

①自分の心を清めて行くことが大切(何も考えない無の境地を作り出す)

②まず自分と向き合うことによって人のためになることができる。

③掃除によって見つめる心(自分の心)を知る。これはきれいだこれは汚いと分別している自分の心が最も汚いことに気づく。自分の固定概念を見つめることでそれを取り払う。

④毎日同じことの繰り返しが時間の感覚がない体験となり、自然に溶け込んで行く。私という固定観念をなくすと楽しく感じられ、自分自身の感覚がなくなれば、自然・他者・他のものと一体化する。我の固定観念が、地球、宇宙全体に広がる。我をこわすことで孤独はなくなる。

⑤他人のために何かをすることで、自分の我をすてることにつながる。つまり自分のことにとらわれず、他人のためにやる。ボランティア、他人への親切など・・・・

⑥一隅を照らすの意味。一人ひとりがそれぞれの持ち場で最善を尽くし、光り輝けば、大きな光となり、平和で明るい世界になる。どう思われてもいい、どんな姿を見られてもよいと思えるとよい。今の自分(良くも悪くもすべて)を受け入れることでベストをつくす。他人と比較する必要はない。

⑦自灯明の意味。自分自身を見つめることで、自分を照らせば周りも照らしていくこととなる。そのためには、一日に一回は、自分自身を振り返る時間を作って、自分自身の新しい発見・気づきがあるようにする。

⑧死に向き合うこと。死とは、単なる自然の現象。死の瞬間まで自分自身を見つめて自分自身を高めていく。

 

 他の人はどう思うかわからないが、私自身は感銘を受けた番組であった。私たちはどうしてもこだわりを持って過ごし、得をしたい、もうけたい、自分の思い通りにしたい、他人からよく見られたい、他人をねたむなどという煩悩がある。それらを少しでもいいので減らすことで心が安らいでくるようになるのかな?そのためには我が無になるようにすればいいのだけど、難しい。そのひとつの方法として他人のために何かをすることかな、と思う。まず、今の自分はどうなのか(ケチな人間が、それとも少しは親切にしたこともあるのかなど)を考えることでそれを受け入れる。自分のできることを考えて行動に移す。そのときにとらわれ(執着や分別)があるとなかなかできないことがあるのが人間だ。けれども何でもいいからささいなこと(ゴミを拾う)からやってみようと改めて思うのであった。

 この放送は、5/21(日) 午前6:00 までNHKプラスで見ることができます。

仕事をやめるとどうなるか2

 前回仕事をしなくなって浮いた時間の使い方を書いてみたが、興味のない人にとってはなんとぜいたくな、と思われるかもしれない。でも当事者になってみるとわかるが、これまで働いて時間を使っていた分がなくなるとは膨大な時間を自由に使えるということ。いかにも贅沢なようだが、見方によっては、持て余す、怠惰になることもあるということだ。やることを見つけていく必要があるのだが、時間をどう使うか頭を悩ます。

 しかし、これも自分で選んだ道である。他人からはいいなあと羨ましく思われる。確かにそうだが、一人で過ごすことが多くなるだけに要注意だ。好きなことをやりたいことをやれるのであるが、そんなに長く続かないのだ。仕事をしているときは時間に追われる感じであったのが、逆に時間を追う立場になる。だからすごく主体的に動かないとついダラダラと過ごす危険が大だと思う。何をやるのか考える時間が増えてきて余計なことをしてしまうことにもなりかねない。その典型がテレビを何気なくつけてだらだらと見ている。または、ネットサーフィンにはまる。そういう人も多いだけに、テレビやネットにとらわれないよう気をつけている。いずれにしも情報過多な誘惑の多い世の中である。

仕事をやめるとどうなるか

 前にも書いたが仕事をやめて、海外旅行に出かけて帰ってきてからずっと家にいる生活になった。今までとは違う生活で仕事をしていた8時から17時までの約9時間が自分の時間として使える。何をするかを考えないとその時間はぼうっとして過ごすことになる。何気なくテレビを見たりコーヒーを飲んだりお菓子を食べたりする。何と言っても誰とも話すことがない。規制されていた時間を自由時間にしたわけだが、よく人はやることがないという。確かにその一面もあるが、やることを考えて行動に移すことが大切ではないかと思う。

 そこでまず始めたのは、今後の予定を立てることである。一ヶ月先、一年先のことも考えるが、今はひとまず。一週間単位と一日単位で何をするか考えやれることをやるように毎日過ごしている。まだ、軌道にのってこないが、一日のルーティンを作っていけば以外にやることがある。朝起きてからあるいは前の晩に何をするかを日記帳に書き出してみる。それから行動にうつす。

 例えばこんな風にやってみた。朝5時半から6時の間に起床。顔を洗って着替えて朝食を取り、朝テレビを見て一応世間のニュースを見る。そして朝の体操ストレッチ。7時ころになるので趣味の英会話の学習を約1時間やって8時。部屋の掃除と整理整頓を約1時間。9時になるのでそれから、ウオーキングを1時間。10時から10時半ころ家に帰る。コーヒータイムと休憩で11時頃までゆったり。11時から12時過ぎまで趣味の読書。それから昼食を作って食べて休憩すると午後1時過ぎくらいになる。それからは、さらなる趣味の時間「例1:読書の続き、例2:絵を描く 例3:オンライン英会話 例4:誰とも話さないので自分一人で話す。例5:自分の考えを書き出す。その一部をブログに載せる。」など。午後5時に再び趣味の英会話学習その2をして午後6時。夕方のテレビを見て夕食。7時半までに終える。その後趣味の時間パート2で読書 インターネットで検索などしてからウオーキング2で夜の街に出かけ、9時頃風呂に入ってゆったりすると午後10時半頃。そして寝る。まあざっと書き出して見たが、いろいろやっていると一人で過ごしていてもやることが結構ある。たぶん他にも 買い物などいろいろ出てくるし、庭の草むしりもしなければ、洗濯も・・・・・というように。要は自分で考え見つけていけば何もなくてぼうっとする時間は少し減って来る。もちろんぼうっと過ごす時間も大切にする。

 ざっとこんなところだ。これがずっと続くとは考えられないが、要はルーティンを自分なりに作っていく。これから新しい仕事を探すこともあるだろうしボランティア活動もすることもあるだろう。人生自分のやりたいようにやれたらいいけど、ひとまずやってみようかなと目の前のことに精を出してみてどうかと修行中である。

 

経験こそ命

 変なお題?かもしれないけど、今まで生きてきて何が残りの人生に生かせるかといったら。経験が一番じゃないかな、と思って考えてみた。今この瞬間にも自分は何かをしているので、経験しているといえば言えるけど、記憶に残るかといえばそうでもない。そう、記憶に明確に残る経験とそれほど記憶に残らない経験をしている。記憶に残るのは、日常とは違う、今までとは違うことをして心に残る経験だ。特に、住んでいるところを変わるとか、旅行をするとか、新しい人々と出会うとか、逆に大変つらい目に会うとか、困難なことに巡り合うとか、いわゆるマイナスのとなるような不快を感じるのも記憶に残る経験だ。ときによっては、それがトラウマとなって残ってくる。もちろん、良かったなあとプラスと感じる新しい経験は後になっても覚えているのでよい記憶として残ってくる。自分の望まない経験はいくらでもあってそのときはつらいし後々につらい思いが残ることもあるけど、それも今後の生き方に関わってくる。苦しみを経験することで得るものも多くあるので、マイナスの経験をしたときには、それを逆にとって今後はこうすればよいとかこんなことを逆に学んだと思えればマイナスの経験も活かしていけることもある。難しいことだけどね。

 プラスになってもならなくても自分から行動してみた経験がやはり記憶に残り、死ぬときに後悔しないのではないかと思うこの頃である。私にとってもやはり心から自分がやりたいことに挑戦して行動したことが結果が良くても悪くても記憶に残ると考えているが、どうだろうか。最近では、仕事をやめた、ヒマラヤに挑戦した、ヨーロッパにいる息子に会いにいった。非日常の経験だったのですごく記憶に残るイメージ?

 一方、記憶に残らないけど大切なことは日常の経験ではないかと思う。当たり前だけど、食事をし、顔を洗い、洗濯をし、掃除をし、風呂に入る、そして寝る、というような毎日の同じ繰り返しも経験である。このときの日常の行いは決して記憶に強く残らないけどもその事自体を何気なく過ごすのでなく一つ一つを噛みしめるように経験することも大事ではないかと思う。日常をないがしろにして過ごすことは日々の積み重ねであるためいろいろなところに支障をきたすことになる。例えば健康を損なう、気力が減退するなど・・・食事一つとってもしっかりかんで食べるとか、感謝して食べるとか、掃除でもきれいにしたいと思ってやるのとでは違って来ると思う。だから非日常の経験だけなく日常の経験も大切にしておくことを心がけていくとよいのではないだろうか。例えば、朝は納豆にごはんを美味しく感謝して食べる、トイレの掃除は毎日やって汚れを落としておく・・・など無意識かもしれないけどそれをあえて意識して行う経験をしていく。

 まあ、経験こそ命なんて言っているけど、日頃から何を意識して行動するのかが大切じゃないかなあ、と思うこの頃です。

こんなところを見たこともあった



わからないとき

 人生にはいろいろなことが日々起きている。一寸先も闇なので、これから何が起きていくのかわからないことだらけである。だから、これからやろうとしていることに対して明確でないときには、遠慮なく聞くことが大切だと感じている。

 しかし、私は、わからないとき人に聞くのをためらうことが多い人生であった。この癖は今でもなかなか抜けきらない。それは、子どものときからそうであったが、聞くのが恥ずかしいとか、相手はどう思うのだろうかとか、などどうしてもためらいが出てきてしまうのである。たぶん聞くと相手が嫌そうとか面倒くさそうとかそんなのこうだと決めつけられるとか、当たり前そんなことしらないの?と返されてなど、そのような負の経験からそうなってきてしまったのかもしれない・・・。命にかかわるとか緊急を要するとき以外は聞かずにそのままにしてしまうことも多々ある。わからなければ自分の殻に閉じこもらず即誰にでも聞けたらいいのだが。躊躇する前に相手がなんと思おうが言おうが、聞くことは恥ずかしくないという意識を少しでもなくしていくことを常に持って行かねばこの癖は治らないだろう。特に初めての経験のときはわからないことだらけだから遠慮なく聞けるようになりたい。

 なぜこんなことを言うかといえば、今回のネパールのエベレスト街道のトレッキングのときに山岳ガイドがいろいろ言うがその都度少しでも疑問に思うことはきちんと伝えなければならないと大いに反省することだらけだったからだ。最初の日程が計画と違っているのにその理由を聞いたが、あとで考えるにもっと執拗に納得するまで聞き返して確認すべきであった。具体的には、泊まる予定の変更があったが、なぜかは聞いたもののそれがガイドの都合でありほぼ嘘であることがあとから判明したからである。ガイドは顧客の希望を組んでしっかり対応すべきなのにそれがされていなかったのは後々にわかったことで、そのときはすっかり任せていてそれほど疑問に思わなかったからだ。以前登った山ではどんなガイドでもなんとか顧客の希望に沿うように話を聞き、説明もしっかりしていた。そういうものだと思い込んでいたのに今回のガイドは説明はおろか態度もいい加減だと気がついたのはトレッキングの後半になってからだ。あとから旅行会社に文句をいったがあとの祭り。やはり、疑問だと感じた時点できちんと聞いて確かめればガイドの態度も変わったかもしれない。今までがそうだったから、聞くまでもないだろうと勝手に思い込んでいた自分も大いに反省しなければならない。

 つまり、人と接する限り、結果的に相手に騙されてしまうこともある。それなら、相手を信用することとは関係なくあれ?と思って納得できなかったり不確かだったりしたときはそのままにせず、気づいた時点で聞く。自分でなるほどと確認でできる納得できるまで聞くことを心がけたい、と思うが・・・・・。それがなかなかできないことがあるのが大いなる反省点である。相手に気づかいすることもあっていいかもしれないが、それでわからないことをそのままにしておかない。ぜひ心がけたいと思う一件であった。

あの山の名は?忘れたら遠慮なく何度も聞き返す

違いをそのまま認めるということ

 ネパールに行ってきた。それは、本物のエベレストを見ることとエベレスト登山基地ベースキャンプを見てくること。書こうと思えばいくらでもあるが、今回は旅の中で感じた日常の違いを思いつくままに考えてみた。

 まずは、日本は親切な国だということ、おせっかいとも取れるくらい。それは、帰国して特に感じる。日本の空港ではこちらが特にお願いしなくてもとても丁寧にこちらですよ、~です。と詳しく案内してくれる。迷うことはほとんどない。ところが、外国の空港では、搭乗が始まるときや搭乗手続きに遅れているとアナウンスがあるくらいで、あとは特に何もない。だから乗り継ぎをするときにも自分で何時にどこから飛行機が出るのかすべて自分で探しだす。場所も自分でさがす。わからなければ聞くしかない。でも聞けば教えてくれる。

 ネパールはビザ(入国許可証)が必要な国なので、空港に着いたら申告をしてお金を払わねばならない。そのときの機械の扱い方が全くわからん、と空港の係の人に聞いたら自分のスマホでなんかかんかとやってくれてビザを取得できた。

 カトマンズの空港で帰りにすごく遅れてしまっていつまでも待たなければならないことがあった。出発が1時半の予定は結局は7時になってしまった。実に5時間半も待たされたのだ。だが、そのときでも、電光掲示板にDELAYEDとでるだけ案内一切なし。でも2回あった。遅れがでているので3時頃になる。のと、あと待っている人は一旦出て軽食を出してくれるというアナウンスだけ。しかもそのアナウンスが聞き取りにくくて、これまた係員に聞くとこちらに来て、という。すると、遅れた便に乗る予定だった客が行列を作っていてついていくとラウンジの中に案内され無料のサンドイッチをいただくことができた、というわけだ。

 食べ終わってからあとどれくらい待つのかと係員にきくと1時間15分という。これもそうあてにならないが・・・。でもやっと乗れたのはそれくらい立ってからだったので係員の言ったことも間違っていたわけでないようだ。それにしても乗客は疲れたなあとは言うが、だれも怒ろうとしない。たまたま一緒に食事をしたネパールの青年は日本に行くところだと言うので聞くと日本の大学で勉強していて今回一時帰国から日本に戻るところだという。それだって待ちくたびれたと言うがそれ以外スマホをいじっているだけでじっと搭乗手続きを待っているのだ。

 やっと搭乗手続きが始まるとみんな楽しそうに飛行機に乗り込んでいった。

 ほとんど説明がなくても物事は進んでいくし、遅れてもしかたがないということでどうやって過ごすかは個人次第。こうしてみると結構外国の人たちも辛抱強いかもしれない。ちなみにこのとき日本人は私一人であった。

 この国際空港にはスズメが住んでいて空港のロビーの中をスズメが数羽飛び回っている。ある椅子のところだけ汚れているので上を見上げると、空調があってその間にスズメが巣を作っているのだ。空調は機能していないみたい。雛のピューピューする声がしていた。それもお構いなし。実に優雅というかいい加減というか。日本ならスズメを追い出してきれいにするところだろうが、それさえしないのだ。

 外国では日本の常識が通じないところは他にもあるが、それでも人生は進んでいく。どちらがいい悪いではなく違いがあるということだけだ。ただ、人は今まで生活してきたところを中心にみるので違和感があるように感じる。便利・不便という違いはあるにせよ、それでも人々はそれぞれの環境の中で生きている。

日本とは違う→電柱に巻かれた電線、4人乗りオートバイ