自分のものなどひとつもない

 この年になってくると今までの生き方・考え方が少しずつ変わってくることに気づく。それは、お題にもあるように自分の物という考え方である。自分のからだ、自分のお金、自分の家、自分の車、自分の子ども、いくらでも自分のという修飾語によって多くの物を所有している感触を得ている。この感触はすごく自分を安心させるからであろうか。

 だが、実際には自分のものはもちろんこの自分の存在自体もいずれなくなるののだ。いずれなくなるもののためにせっせと働きせっせとため所有している。所有しているという思い込みで自分のものを大切にしている?自分のものということは本当はどういうことだろうか。特に自分が使うものについては所有意識がめちゃめちゃ高い。だから自分のものという思い込みが強いほどそれがなくなったりこわされたたり盗まれたりしたときはかなりのショックを受けるし、場合によっては怒りもわいてくる。自分の所有する車が良い例であろう。ボディーを傷つけられたときなどは人からやられたのであればよけいショックであきらめがつかない。これも所有意識が強いからである。ショックで立ち直れない、怒りがおさまらない、という場合もあろう。でも冷静に考えてみれば起きてしまったことはどうしようもない。最後はどうせ手放さなければならないし自分のものではなくなっていく。こだわりを持ち続けていくのはよけい苦しみを生みだす。

 最近思うようになったのはいずれなくなるのであるから自分のものと思っているものはお返しするというように思ってもよいのではないかな?ということ。この我が身も今すぐにではないかもしれないが、いずれ自然にお返しすることになる。全ては借りて使わせて頂いているもの。だから使わせていただいている自分のからだ、ものなど少しでも上手に使って返せばいいのだ。持っているお金もいつまでも持っていないで使っていく。いつまでも自分のものと執着していてもしかたがない。今現在使わせていただいているものをせめて生きている間に大事に使っていきたいものだと思う。

 どう使うかって。私としては借りているすべての自分のものと思われるものを無駄にしないで大切に使うことがいいかな。あるいは、やりたいことをすべてやり尽くせばこの借り物の自分が、この世の中や社会のために少しは役立ったといえるのかもしれない。迷惑をかけることなどがときにはあるだろう。人のお世話になることもあるだろう。そういうことがあってもそれはそれで仕方がない。いろいろなことを思う思うこの頃である。もちろん、これは私が思っていることで他の人は思いや考え方が違うことは百も承知である。

20年以上使っている山靴。なかなか捨てられないなあ