今まで生きてこれたのは運がいいから

 生き方講座みたいなお題。前も書いたかもしれないけどこの世に生まれたのはすごいこと。これも運がいいから生まれたんだよ。だって、父親や母親がいたから今の自分がいる。そして、今の今まで生きている。なんと幸運なんだろうか。酸素を取り入れ二酸化炭素を吐き出し、食べ物を取り入れ糞を出している。こんなことがほぼ自動的にできてしまっているんでしょう。交通事故にあっても運良く死なずに生きている。溺れそうになっても運良く生きている。入院しても運良く生きている。運良く高校にも入ってましてや大学まで運良く行けて仕事にもつけて働いてこれた。結婚までして子どもまで生まれてくれた。文句のつけようがないですよ。本当に運がよかった。定年まで働けて年金までもらえる年まで運良く生きてこれた。文句を言ったらバチがあたるぞ!そして今また好きなことをやろうとしている。運良く今のところ離婚もしていない。

 もし今まで運よくやってこれても途中でだめになることがいろいろあるかもしれない。それはそれで仕方がない。それまで頑張ったのならいいんじゃない? 結果がどうなるかわからなくても気にしないで自分がやりたいと思って挑戦したことを大事にしたい。挑戦できたことも運がよかったからだ。今まだ生きていられるのは運がいいからだ。運がいい限り死ぬまで生きていけるだろう。

 

 

人は変われるか?

 またまた哲学的なお題。あの人変わったなあということもあるけど、昔から他人と過去は変えられない、なんてよく言うよね。実際に他人を変えようとするにはすごい労力がいるうえに、いくらこちらが注意したりなだめたり叱ったりしたってそう簡単なことではないよ。昔自分の子どもを叱ってその行為はやんだけど他のところでまた同じようなことを繰り返すことがあったよ。

 自分はすごく怒りっぽくて短気なのでそうでない心の落ち着いた自分に変えたいと思った。ひどいときには手が出たり物にあったたりもした。心理学や哲学を勉強したり、宗教に関わってお寺で座禅を組んで瞑想したりもしたけど、根っこではなんら変わらないのだ。いざとなるとまた同じことの繰り返しでいつのまにかかっとなっている。自分の心が変わればと思ってやってみたけどほとんど無駄。

 では、自分を変えるのは全く無理なのか?まして他人を変えるのはなおさら大変。今思うに、変えようと思ってムキになったりしゃかりきになったりすることをあきらめることだな、と。自分の何が変えられるか。それは自分の見方や考え方を外からみてみるといいかも。変えられなくても自分とは他人は今はこういうもんだ。無理しなくていいよ。そのままで、と思うと以外にすっきりする。そのように思えなくても、場所を変えたり環境の異なったところに自分を置いてみるとそのきっかけになったりする。今すぐ変わらなくてもいいじゃないかと開き直ってみると、以外に変わっている自分にあとから気づくこともある。また元に戻ってもいいんだ。またやりなおせばなんて軽く考えた方がストレスもたまらないかも。

 結論!そう追い込まずまずは自分の心の状態を外からじっくり眺めてみることで.無理して変われなくてもいいとゆったりとかまえてみよう!と自分で自分に言っていきかせているのであった。自分は自分、あなたはあなた です。

◆相田みつを「そのままでいいがな」木製額入・即決あり◆_2

 

 

自分のことをどう見る?

 またまたちょっと変わったお題。自分という存在はあるとして、その自分とはいったい何者であるのか。昔から哲学的に考えられたきたことでもある。難しい課題である。

 でも、ここは私なりに考えてみる。自分とはどういった人間なのだろうか?

 頑固。人の意見を素直に聞かない。言われたことはやろうとしない。嫌なこと・やりたいくないことは避けようとする。いい加減なところがある。知ったかぶりをしたり自慢したりする。はずかしがりやで人のことが気になるのに知らんぷりをする。そして、自分勝手、短気、けち。

 以上のことは自分の愚かさ、マイナスな面をざっと思いつくままあげてみた。いっぱいあるのだが、これを人から言われると腹が立つ、というのも自分だ。それほど自分にはプライドがあるからだろう。

 一方、自分の考えを持とうとする。好きなことは進んでやる。やさしく接することができる。責任感はある方。真面目な一面もある。きちんと計画を立てて取り組もうとする。わりとまめ。あいさつをしようと心がけている。趣味など長年続けてきたことがある。定年までよく働いたものだ。

 これもざっと並べてみた。これを人から言われると自尊心がくすぐられてうれしくなる。なんと勝手なものだろうか。

 何が言いたいかと言うと完全な人間はいない。逆にすべてが悪という人間はいない。だから、自分と考えが違っていても、まずひとりの人間として自分を見る。同様に他人もひとりの人間として見てといいのかな。他人も自分もどう見るかは難しい。どうしても自分のフィルターを通して見てしまうから、思い込みがものの見方をじゃましてしまうことが往々にしてあるのだ。自分は本当はどんな人間か?よくわからないところがいっぱいである。でも、こうして生かされていることに感謝!

人はそれぞれの思いで走る、生きる。

 

自分のものなどひとつもない

 この年になってくると今までの生き方・考え方が少しずつ変わってくることに気づく。それは、お題にもあるように自分の物という考え方である。自分のからだ、自分のお金、自分の家、自分の車、自分の子ども、いくらでも自分のという修飾語によって多くの物を所有している感触を得ている。この感触はすごく自分を安心させるからであろうか。

 だが、実際には自分のものはもちろんこの自分の存在自体もいずれなくなるののだ。いずれなくなるもののためにせっせと働きせっせとため所有している。所有しているという思い込みで自分のものを大切にしている?自分のものということは本当はどういうことだろうか。特に自分が使うものについては所有意識がめちゃめちゃ高い。だから自分のものという思い込みが強いほどそれがなくなったりこわされたたり盗まれたりしたときはかなりのショックを受けるし、場合によっては怒りもわいてくる。自分の所有する車が良い例であろう。ボディーを傷つけられたときなどは人からやられたのであればよけいショックであきらめがつかない。これも所有意識が強いからである。ショックで立ち直れない、怒りがおさまらない、という場合もあろう。でも冷静に考えてみれば起きてしまったことはどうしようもない。最後はどうせ手放さなければならないし自分のものではなくなっていく。こだわりを持ち続けていくのはよけい苦しみを生みだす。

 最近思うようになったのはいずれなくなるのであるから自分のものと思っているものはお返しするというように思ってもよいのではないかな?ということ。この我が身も今すぐにではないかもしれないが、いずれ自然にお返しすることになる。全ては借りて使わせて頂いているもの。だから使わせていただいている自分のからだ、ものなど少しでも上手に使って返せばいいのだ。持っているお金もいつまでも持っていないで使っていく。いつまでも自分のものと執着していてもしかたがない。今現在使わせていただいているものをせめて生きている間に大事に使っていきたいものだと思う。

 どう使うかって。私としては借りているすべての自分のものと思われるものを無駄にしないで大切に使うことがいいかな。あるいは、やりたいことをすべてやり尽くせばこの借り物の自分が、この世の中や社会のために少しは役立ったといえるのかもしれない。迷惑をかけることなどがときにはあるだろう。人のお世話になることもあるだろう。そういうことがあってもそれはそれで仕方がない。いろいろなことを思う思うこの頃である。もちろん、これは私が思っていることで他の人は思いや考え方が違うことは百も承知である。

20年以上使っている山靴。なかなか捨てられないなあ

 

雑草魂

 ネットで調べてみると雑草魂の説明がなされている。代表的な人は元巨人軍の上原投手だ。人はどんなことからでも学ぼうとする心があるので、日常の何気ないできごとや物事からいろいろなことを考える。

  最近草が家の周りによく生えてくるので草むしりを雨が降る日以外はよくするようになった。本当にコンクリートとやアスファルトのすき間に成長している雑草があることに気付く。植物にとって見ればこういう狭いところで育てば他の植物には邪魔もされず大きくなれるかもしれない。植物は何も喋らないけど、ひたすら芽を葉を上に向けて伸びていく。その姿に凄さを感じるし、草むしりをしたばかりなのにすぐに次の草が生えてくる。コンクリートの間に挟まった雑草はなかなかとれない。雑草と呼んでいるけど本当は名前もつけられているし、その生命力は果てしないものがある。これらの雑草を人間と比べること自体しょせん無理なことなのであるが、教訓にしてしまうところがまたすごい。

 ちょっとした環境の変化に弱い人間は果たして雑草のようにたくましく生きていけるだろうか、思いながらときどき心が折れる私であった。

何のために働いているのか?

 仕事をやめてから3ヶ月が経った。その間の収入はゼロでなく、わずかな年金のみ。あとは貯金を切り崩して生活している。いずれ貯金は底をつく。また仕事を見つけて働くのか?今の私の考えでは、収入のためだけに働こうとは思わない。

 若い頃は、働くことが当たり前で収入も得られるのが当たり前と考えていた。今思うといったいどんな思いで働いていたのだろうか。よく考えてみると働くのは収入を得るためでもある。その収入でいろいろなものが買えるし旅行もできるし食べていくこともできる。一日のうち8時間以上働いているのは当たり前であった。仕事にやりがいを感じていたのだろうか。仕事に関してはいろいろな考え方があるのでこうだというものはないが、一般的には自分の特性を生かした好きな事ができてたくさんのお金を稼ぐことができることが理想だと思われる。典型的なのはメジャーリーグで活躍している大谷選手などであろうか。本当に野球が好きでたまらないからそれを仕事にして収入を得ている、と考えられるだろうか。もしかしたら本人は仕事と意識していないかもしれない。また、将棋の藤井聡太七冠はどうなんだろうか。これらの特殊な才能に秀でている人はもちろん努力もするが才能を十分に活かしてやっている。収入を得るためにやっているんではなくて本当に大好きだからやっていると言った方がよいかもしれない。またそれほどの覚悟も必要だろう。

 自分を振り返ってみるとそれほどの覚悟を持って仕事をしてきたかといえば疑問符がつく。自分がやっている仕事が果たして本当に自分に適しているのかとか好きでやっているのかと問われれば、そうでもないということもあるだろう。しかし、まずは自分の目の前にある仕事に一生懸命に取り組んだら喜びを感じるようになったり、そのことからもっと別の仕事が見つかったりする。

 ここで大事なのは、仕事のやりがいはお金というよりも自分のした仕事によって誰かを笑顔にできるとか役に立っているとか助けになっていることが一番のように思う。最初は辛かった仕事も頑張ってやっていたらいつのまにか楽しくなっていた、ということもあった。つらいときもあった、やめようと思うこともあった。しかし、「万事塞翁が馬」である。良いこともあれば苦しいこともある。それも仕事の醍醐味かもしれない。自分が苦しくて我慢できなくてもう耐えきれないときは、やめるのも一つの方法だし、ここは我慢して次を待とうということも選択できる。いずれにせよ、何のために今この世の中にいてどうして働いているのか、なぜ今この仕事をしているのか、考えてみることも必要かもしれない。

 ただ、仕事というのは家の家事や子育てなどお金にならないものもあることを付け加えておきます。

こんな大きな荷物を運んで働いていたポーター(ネパール)

 

人生は 今しかない

 なんだ?このお題は? 自分で言うのも何だけど意味がよくわからないかもしれない。よく考えてみると自分の行動はこの脳の支配を受けて行っている。まずは、意識と無意識。今このブログを書くために指を動かしているのが意識的に行っている動作。脳が命令している。ところが、この最中にも無意識で行っている代表的な例が呼吸だ。貧乏ゆすりもそう。この瞬間に自分の体がどんな動きをしているのか、また心の中で何を考えているのか、意識と無意識が混ざりながら、交互に出てきて次々と行動や思考が進んでいく。考えて見ると不思議だ。今考えていることは、意識して行っているようだが、無意識でどこからか湧き出てくることもある。書いているときに今日は何を食べたかと過去のことを考えてみたり、明日は医者に行かないと…など未来のことを考えたりして余計だと思うことも浮かんでくる。不思議としかいいようがないが、いずれも今この瞬間に考えたり思いついたり行動しているのであって、過去のことや未来のことを思ったり考えていたりするのも今この瞬間なのである。つまり。人生は今しかない。将来に不安を感じているのも今の自分。過去を後悔しているのも今の自分だ。テレビをみたい、寝たい、ゆっくりしたいと思っているのも今の自分。この瞬間に何を思うかによって今後の行動も変わってくるのは確かだ。明日はこれとこれをやろう。そう考えていても今しか生きていない。いいことも悪いことも何を思っても全て一秒後にはどうなっているかわかりゃしないのだ。だから、今ここに与えられた環境の中(与えられた収入の中で、仕事で、人間関係の中で、この場所で、この国で)で、この瞬間にできることをやればいい。生きたいように生きる。今に集中して生きよう。と自分を励ましている私がいる。

 スティーブ・ジョブズのことば「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」

 難解なことを書いてみたけど、今できなくてもいいんですよ。生きていることがすでにすばらしいから。だからいつ亡くなってもよい、と思って生きていく。

今しかないからこんなところにも行ってみる