私が山に登るわけ(なぜこんな趣味になったの)

 今日のお題は、趣味の話 よくNHKのBSチャンネルで日本百名山などと山登りの話題の番組をやっている。山登りなど興味のない人にはいい迷惑な番組で見向きもしない。

他にも料理、ピアノ 映画、ゲーム テニス、野球にサッカーなど、趣味はいっぱいあるのに

「なんで山になんか登るの」

とよく山登りをしない人から聞かれることがある。

「そこに山があるから。」

なんて昔答えた人がいるらしい。私もそのように答えることがあると思われるだろうが、そのように答えたことはない。まあ、答えてもしかたがないので、黙っていることが多いのだ。はっきり言って理解してもえらえることはまずない。

「なんで山になんか登るの。えらいだけやん。」という人はまだしも、大抵の人は、

「すごいねえ~。」

と感心されて言う。でも、心の中では、もの好きやなんて思っているフシがある。

 まあ、他人がどうのこうのと言っても、好きだからとしか答えようがない。かっこよくいうと、つらい登りのあとに頂上に立ったときの達成感が忘れられない、とか、眺めが素晴らしいとか、非日常の世界を味わうことで日頃の慌ただしい生活を忘れられるからとか答えることが多いかな。

 でも、よく考えてみると理由などあまり考えたことがないのが正直なところだ。子どもの頃に祖父に連れられて信仰の山に登ったことがあるというきっかけがあるにはあるが、簡単にいえば、他にやることがないからとも言える。他に取り柄があるわけでもなく興味が他にはわいてこない。

 自分が勝手に好きでやっているだけかな。考えて見れば始めた頃は他人との比較しながら俺は山に登るんだ、とか他の人とは違うんだんとくだらん戯言を考えていた時期もある。ただ、自分でいうのも何だが、数年でやめたり途中で違うことを始めたりしなかったのはなぜだろうか。思い出してみると本格的に山を始めた二十代に登っていた仲間がいたのだが、多くは途中で山登りをしなくなってしまった連中が多い。結婚を機にとか子供ができたからとか、である。それなのに私は結婚しても子供ができても山登りを続けている。おかしいんじゃなかろうか。自分でもそう思うこともある。妻には愛想をつかれ勝手なことをやっているだけともいえる。そのうち離婚ということも?

 でもこの年になって思うのだけど、なんか諦めぎみなんだよね。何って、他の人から見たらよくやっているわとしか見られない。自分でもよくわからんのだが、続いてしまっているのはもうしかたがないバカとしか答えようがないんだ。

 まあ、なんだかんだと言っても山登りは死ぬまで続けるかもしれない。だって、次に行きたい山は次々に浮かんでしまっきて止まらないからね。

ここが出発点

ここがゴール

 

比べることは、いいことなのか、だめなことなのか

 今日は、お寺の和尚さんの話で、他と比べると言う説話があった。ここのお寺の道場は修行が厳しいが、あそこのお寺の道場の修行はやさしい。では、やさしい方のお寺に入って修行しようと入門した。ところが、やさしいどころか思っているよりかなり厳しい。やさしいと思ってやってきたのに違うじゃないか、と思う。一方、厳しい道場に入った人は、あそこの道場はうちよりもやさしい。いいなあ。それに比べてここは厳しすぎる、と思う。どちらも他と比較して思っている。さてこれはどういうことなのか?これは、やさしい、楽をしたい、という気持ちが初めにあって、それを嘆いているという状況である。そういった先入観をもって物事に取り組めば結局はいやだなあ、という気持ちが先行してしまい、修行も続かなくなってしまうことにもなるという。だから、ひとまず、どちらに入ってもそこでの修行にひたすら取り組めば2週間で慣れてきて修行も続けられる。といったような話であった。

 私なりに考えてみた。2つの物、またはそれ以上のの物を比較して選ぶということは毎日あることである。赤と黄色のどちらの服が自分にあっているか、塩ラーメンと味噌ラーメンのどちらが美味しいか。どちらが安いか高いか。どちらが得か損か、アメリカとイギリスどちらに行きたいか。いくらでもある。大きな選択ではどちらの仕事にしようかなどはとても慎重になってくる。問題は、どちらにしても選んでしまったら、できるだけ後戻りはしないことかもしれない。買ってしまってからやっぱりあちららの方がよかった、もっと安いのがあったのに、あちらの仕事の方がよさそうだ、もっと美味しいと思っていたのに…・・など。こうしたことはよく起きることである。では比べなければいいのか?そういうことではないだろう。比べてもいいけど、決めたらどうするかだ。また、決める前からこちらの方が楽な仕事だから、これが美味しいから、といった思い込みをして比べて決めている。思うに、決める前でも、決めたあとでも、自分の勝手な思い(妄想)がうずまいている。もっといえば、比べてそれにこだわりやとらわれがあるために、しまったなあ別の方にすればよかったといった思いが出てきてしまうのではないだろうか。以上に述べたことは、私など常日頃にあることだが、初めてみたときとちがうなあとか、別の方法があったのになどど考えることなく、選んだらそれでひたすらやるだけと考えたい。むずかしいけどね。

  あと、よくやってしまうのは、自分と他人とを比べるということ、あいつはオレよりカッコいい、よくできる、いい車ををもっている。逆にあいつはオレよりみっともない、できない、ポンコツ車だ、など…。ついコンプレックスやら優越感やらが頭を持ち上げてくると始末に負えない。

 比べることは決してだめなことではないけど、比べたあとの心の持ちようかな。そのことでああだこうだというとらわれが少しでもなくなれば別に比べることはいいんじゃないか、とも思うけどもどうだろうか。

花はどちらが美しいとかくらべていないんだよなあ

 

うなぎを1年ぶりに食べる

 食べ物の話。今日久しぶりにうなぎを食べた。口の中でうなぎがとろけていくよう…実は、母親の三回忌の法要でそのあとの食事だ。なぜこんなことを書くかというと、昔はうなぎはもっと安くうな重を食べることができたのに、今はめちゃくちゃ高く一匹入って4200円もするものだからめったなことでは食べないからだ。高いから食べないわけではない(高くても好きだったら食べるだろう)が、前回うなぎを食べたのは一周忌の昨年の今日だった。そのときもお腹が膨れてしまうくらいであったが、今日もそうだ。まるごと一匹入っているものだから、同じく腹が膨れて大満足。まあ、時々食べるから美味しく感じるのであって、これが一ヶ月の一度、いや一週間に一度も食べていたらそれほどでもなくなってしまうだろう。

 なにが言いたいかというと、値段が高くてあまりにも美味しいと思うものは頻繁に食べるものではないなあ、ということ。たまに食べるので美味しく感じるし、あとになってもその味が残る。いやこれは私だけかもしれないが…。美味なものに食べ慣れてしまうとありがたみもなくなってくるような気がするがどうだろうか。考えてみれば毎日食べている白米だって同じではないかなあ。江戸時代のお百姓さんは、せっかく収穫したお米の多くを年貢として取り上げられ、毎日お米を食べていたわけではなかった。ひえやあわ、麦ななどを混ぜたりして食べたことが多かったという。ましてや肉類は皆無と言ってよかっただろう。一方、現代は毎日お米が食べられて肉や魚も毎日ののように食べられる。なんとぜいたくな食生活だろうか。ましてや現代の食べ物の多くはお米はともかく多くのものが外国産で輸入して食べたい物を食べている。おかげで長生きもできるようになったかもしれないけどね。でも、まあここいらでちょっとは欲を抑えて、江戸時代の農民とはいかなくても少し粗食にして食べ物のありがたさを味わいつつ、たまに美味しいと思うものを食べた方がかえってより健康にも良いかも?飽食の現代にはなかなか難しいけどもね?それにしてもうなぎは美味しかったなあ!今度うなぎを食べるのは7回忌になるかな?

最近流行っているメニューの撮影(もう経験できないかもしれないお正月の山小屋の朝食)うなぎではありません。                                

当たり前のように思えるけどすごいと感じること

 日々、仕事に追われていて、身の回りのことにそれほど目を向けていなかったのに、仕事をやめてちょっと目を向けると当たり前が当たり前でないことに気づかされることがある。それは、命があるのはとてつもなくすごいことだということ。考えてみれば、この地球にすべての生き物は生きているわけだけど、なかったらとても生きていられな物がある、全てが死滅してしまうだろう。

 その代表例は空気。空気の中に酸素があるから生きていられるわけでしかもその割合は世界中どこに行っても空気中の全気体の21%に保たれている。これが少しでも減ったり増えたりしただけでも大変なことになってくる。宇宙に出たらあっという間に苦しくなって死ぬ。ありがたいことだと思うのだがどうだろう。普段ほとんど気にかけもしないことだけども、当たり前のようで当たり前でない。この地球のしくみに改めてすごいと感じる。それはどんなことでも言える。空気だけでなく、水があるから、土があるから、いろいろな動物や植物がいてくれるから等、生きていける。なかったらどうなるか?実際、世界には水も食べ物も不足しているところがある。日本でもちょっとないだけで大騒ぎになってしまう。本当は有り難いことなのに、食べ物、水、空気などどれも当たり前のように消費している。だから、すべての物に感謝するしかない。空気や水には国境はない。当たり前に空気や水があると思って、戦争など争いごとをいつまでもしている場合ではない。

美しい自然 空気・水・生き物・大地があるから見ることができる。

 

冥土の土産というつぶやき

 あまり縁起でもないお題。なぜこんなことを書くかというと、私みたいに退職して今までやっていた仕事から手を引いてしまうと、どうしても死ということが少しずつ身近に感じるようになるからである。若い頃は多分そんなことは意識しないであろう。同じ年代の方々が亡くなっていくのも関係する。同級生だけで三人がもうこの世にいない。つまり、自分だっていつこの世とおさらばするかわからないのである。あと、昔は仕事を一線から手を引くと隠居といって今までの仕事一辺倒の生活から別の生活が待っている。極端なことを言えばあとは死が待つのみなんで考える人も中にはいただろう。

 そこで、冥土といえば死後の世界。浄土といったりあの世といったり天国といったりすることもあるかな。実際には死んでしまえば何も持っていけない。自分の体、自分の大切にしていた物、お金や財産などはすべて置いていくというか捨てていかねばならない。自分という意識は実体がないためよくわからないところがあるが・・・。いずれにせよ、冥土の土産など持っていけるはずがない、というのが妥当なところだろう。

 では、どうすればよいか。それは冥土の土産をものとして考えないことだ。死から今の自分を考えたとき、死ぬまでは絶対に生きているわけで、もうこれで終わりだと感じるまでが生である。その時何を思うか考えてみる。たぶん、それまでに生きてきたことを思い起こすと思う。そしてもうこれで思い残すことはない,悔いはないと思われたならば、それが冥土の土産になるのかな。このままで死ねない、と思えば悔いが残っているので冥土の土産も少なくなるかな。まあ死ぬ瞬間までわからないことばかりだけど。私が考えるに冥土の土産とはこの世の中で行ったこと、経験したこと、したいことができたことであり、よかった、ありがとうと言って死ねるとそれ自体が土産になるとも思う。できなかったけどやれるだけのことはやって生きてきたと思えるだけでもいいかもしれない。

 ということは、まだ生きている間は、いつかすればいいなどど後回しにしないで、今心から本当にやりたいことをどんどんやっていく、結果的にできなくなっても挑戦していくことが自分の人生を生かす、命を使うことになり、それこそ冥土の土産となると思うがどうだろうか。ただ大事にしたいと思うことは自分だけのためにするのではなく、自分のためにやったことであっても、結果的に少しでも世の中ため人のために役にたったといえたら、ラッキーかもしれない。

 例えば、伊能忠敬という人も仕事をやめて隠居してから自分が好きな学問を学んで好きなことをやった結果、日本の地図を完成させてしまった。こんなことは真似できないけど、自分の生き方の大いなるお手本と感じるこの頃である。

大日如来

 

あいさつの意味

 今日は近くの山に登ってきた。今住んでいるところは近くに身近なハイキングコースがあるのでよく出かける。不思議なことに日本では、出会うたびに知らない人であっても「こんにちは」とか「おはようございます」という。町中ではお店の人がいつもいうかな(マニュアル化していることもあるかもしれないが)。また、知っている人であれば、家族、近所の人、職場の人はとは会うと普通はあいさつを交わす。

 今回改めて考えたのはあいさつとはどういう意味があるかということだ。いろいろな本やインターネットにその意味が書かれている。そのいくつかを拾い出すと、

「挨拶」はコミュニケーションの基本、入り口だと言うことです。
私たちは、家族や友人、同じ目的を共有する仲間や、また初対面の方とも、相手を尊重しながら、お互いの考えや思いを伝え、理解し合おうとします。

相手の存在を認めていることを強力に表せることです。

あいさつは、心を開き、相手を対等で同じ地球に生きる仲間として認め、信頼関係を築いていく大切な一瞬だ。

など・・・・etc.

 確かにその通り。相手があってこそあいさつと言える。一人で誰もいないところでこんにちは、といっても普通それはあいさつと言わないであろう。でも、人でなくて動物に対してもあいさつをすることはある。ペットの犬や猫におはようというし、もしかしたら金魚にも言う人がいるかもしれない。

 人はもちろんだが、生き物に対しては言うのに物に対しては言わないだろう。やはり相手あってのあいさつと言えそうだ。今回、考えたのは、相手があいさつを返す場合と返さない場合についてである。今日登山道で出会ったほとんどの人が、あいさつを返す(わたしも返すよう心がけた)が、中には全く無言の人もいる。一般的にあいさつは返すのが普通だと思われているが、返さない場合も結構ある。お店の人が言うあいさつに返す人は少ない。ましてやペットにあいさつしても言葉では絶対に返ってこない。こちらから人にあいさつをしても返って来なかった場合を考えると、知り合いの人はもちろんだが、知らない人でもせっかくあいさつをしたのになぜ返ってこないの、などどちょっとがっかりする気持ちになったことはないだろうか。上に掲げたあいさつの意味から考えると、こちらが相手の存在を認めて信頼してあいさつしているのに返さないということはこちらの存在を認めていない、信頼がないのか、なんて.......まるであいさつの見返りを求めてしまう期待をしてしまうようなことがあるんですよね。ともするとあいさつしてやっているのにといった傲慢さが出てきてしまうこともある。よく考えるとあいさつだけではないのだけども、初めから見返りは求めない期待しない方が気持ちがスッキリするような気がする。

 もっと言えば相手の反応を気にすることなく、相手がしようがしまいが関係なくあいさつをすればいいのかな、と思うのだがどうだろうか。あいさつは自分のためにもすると考えてもいいかもしれない。相手がいれば、まずは自分から声を出す(気持ちがこもっているかどうかはともかく)ことがスタート地点かな。

こんにちは!(ちょっと表情が・・・)

 

仕事をやめるとどうなるか3

 仕事やめてから2ヶ月が経とうとしている。なってみるとわかるが、一日の過ごし方が一定のパターンとなってくる感じだ。例えば、朝起きる時間や寝る時間までほぼ毎日同じ。毎日本を読む、散歩をする、同じ番組を見るなど、やることが同じことの繰り返し。

 一方、今まで考えたことのないことを考えたり、今まで何気なく見ていたものに新しく気づいたりする。その一つが、時間があると散歩をよくするようになったのであるが、今までよく通っていた近所の道や家など何気なく見ていたものが新鮮に見えるということだ。考えてみると本当に忙しくて目に見えていても何も気にせず考えずであったことに改めて気づく。

 例をいくつかあげてみると、それぞれの家の前や庭先には以外に多くの美しい花があるということだ。大げさに言うと普段それほど目に止まらなかった美の世界に改めて気づく。じっくりと時間をかけて見ることは新たな発見が多くある。また、あまり通らなかった路地に思いもかけないものを発見。それはメダカだ。なんかやたら水槽があって水の中を除くとたくさんの種類のメダカがいくつもの容器に分けられて泳いでいる。趣味でこんなに飼っているお宅があるんだ。驚き!仕事をしていてもそこにあっただろうにいかに今まで忙しく脇目もふらずに駆け抜けてきたか。

 仕事を離れて見ると今までにない視点で物を見ることもあるようだ。